1月30日トークレポート(土井淑平さん)

人形峠から見えてくる隠された原発の真実
映画『イエロー・ケーキ ~ クリーンなエネルギーという嘘』を観て

国産ウラン開発を目指した1950年代~60年代の人形峠のウラン鉱山
鳥取と岡山の県境にあります人形峠のウラン鉱山の問題に取り組んでもう24年目くらいになります。かつて人形峠でウランが掘られて、そのウランが東海1号の原発の燃料にもなった、といういわくつきなんですけど、ウランが掘られたのは1950年代の末から60年代の初めにかけて、今からもう50年前ですね。
そのウラン採掘のツメあとが人形峠の周辺の鉱山地帯に残っていました。人形峠周辺には大きな鉱山群が3つありまして、人形峠鉱山、東郷鉱山、倉吉鉱山。そして、この3つの鉱山群の中の12の地区に鉱山があった。1950年代末~60年代初めにかけて採掘されましたけど、人形峠のウランは当時有望と見られて、日本の国産ウランを開発するという意気込みで取り組んだんですけど、質も量も商業ベースに乗るものではない、ということで、結局日本は海外からのウランの輸入に転換したといういきさつでした。

ウラン残土は200リットル入りドラム缶225万本分の45万立方メートル
ところが、人形峠で掘られたウランはせいぜい100万キロワット級の原発のおよそ半年分足らず。その半年分足らずのウラン採掘で膨大なウラン残土が残されていた。量は45万立方メートルです。200リットル入りドラム缶に換算して225万本分です。
これは日本の原発と核施設の全てからこれまでに出た低レベル放射性廃棄物の累計の2.5倍で、つまりそれだけの核廃棄物、核のゴミがすでに入口から出ていたということで、私達も驚きましてこの問題に取り組んだわけです。

ウラン採掘で被曝し胃潰瘍の手術をした方面(かたも)地区の榎本益美さん
鳥取・岡山の12地区のウラン鉱山のうち、ウラン残土の撤去を要求して立ち上がったのは、鳥取県側の方面(かたも)地区です。方面地区は現在20所帯、だいたい100人くらいの小さな村です。当時は25所帯、150人くらいおりまして、ウランブームに乗りまして、一所帯2人だいたい夫婦でね、山に登ってウランの雑役作業に当たりました。雑役というのは掘ったウランをトロッコで運んだり、あるいは残土というものが大量に出るので、その残土をどんどん捨てていくんだけど、それがずる(ずり落ちる)ものですからズリ止めの柵をつくるという雑役などでした。
しかし、その中で方面地区に一人、実際にウラン鉱山の真ん中でウランを採掘された方がおられました。榎本益美さんという方です。榎本さんは当時、(坑道の先端の)切り羽の先頭に立ってどんどん掘り進む。当時は防塵マスクも何もない。そういう状態で、ウランの危険性なんか全然教えられないまま掘り進む。従って当然被曝します。榎本さんご自身も当時放射能の急性障害ですけど、鼻血、脱毛などの急性症状に見舞われました。それと大切なことですが、榎本さんは当時ウラン採掘のさなかに重度の胃潰瘍を患われて医者に行きますと、穴が開く寸前の胃穿孔を8つ摘出する手術をされました。医者には「もうウランの山には行くな」と言われて行くのをやめた。

榎本益美さんを中心にウラン残土の撤去要求に立ち上がった方面地

そのようないきさつをもった榎本益美さんが方面地区の中心人物でありまして、ウラン残土放置発覚以来、ウラン残土撤去運動の中心になってきました。方面地区はたった20所帯の小さな村ですけど、榎本さんを中心に撤去運動を始める。それを支えたのは、一つはかつての社会党と県総評の対策会議、それからもう一つは私達無党派の市民グループ。その二つがそれぞれ撤去運動を支援してきました。
それで、1988年8月に放置が発覚しまして、方面地区はその年の暮れから撤去要求を始めまして2年後の1990年、ウラン残土の撤去協定書を当時の動燃、現在の日本原子力研究開発機構 ― 当時は、動燃って言っていましたね、かつては悪名高くて、「どうねんは一体どうなってんねん」と言われたあの動燃 ― この動燃と方面自治体は撤去協定書を結びました。方面地区には1万6000立方メートルのウラン残土が放置されていていました。そのうち、動燃が放射線レベルの高いウラン鉱帯部分つまり鉱脈の部分のウラン残土を撤去するということで、1万6000立方メートルのうち、3000立方メートルの撤去の協定書を結びました。その撤去先としては人形峠の岡山県側にある動燃の事業所を想定していたんですけど、岡山県知事が「鳥取県で危ないと言われているものは受け入れられない」、ということで拒否しまして、ウラン残土は行き場を失う。

榎本益美さんの実力行使と撤去訴訟による方面地区のウラン残土撤去
動燃も岡山県の拒否をこれ幸いとばかりに、のらりくらりと引きのばしてきました。その間、もちろん方面地区あるいは支援グループは撤去要求してますんで、撤去先もいくつも浮かんでは消え、浮かんでは消え、私が数えたところ結局8回、8ヶ所出ては消え出ては消え、最後に8回目に撤去するんですけど。のらりくらりずるずると引きのばす動燃に対して、さすがに榎本益美さんが怒りを爆発させまして、1999年の12月1日の未明、自分の土地に放置されているウラン残土を撤去しろと。
自分のところの残土の状況を点検するということで、対策会議のメンバーと一緒に行きまして、つべこべつべこべ動燃が言うもんだから、榎本さんが怒りまして、「つべこべ言うな、自分の土地の残土を持って行ってくれ」「オレの土地だ!何が悪い!」、と言って掘り出したんです。スコップで。対策会議のメンバー、それから私達市民グループも加勢に来て。一袋掘り出したと言ったって、強化ゴム性のビニールに入っている一トン弱の大きな袋ですから、とてもじゃないけど運べん。それで、榎本さんは山の技術者だから、(自宅から)チェーンブロックを持ってきて、釣り上げてずるずる引きずり降ろして、(深夜にトラックで運んで岡山県の)動燃事業所の玄関にぽ~んと投げる、そういう行動を(支援者とともに)取られました。

いまだ人形峠には膨大なウラン残土が野ざらしで放置されたままだ
この榎本さんの実力行使がきっかけになりまして、その翌年に方面自治会と榎本さん個人が二つの訴訟を起こしました。榎本さんの訴訟は(原子力産業と原子力行政にべったりの司法の定石通り)部分敗訴でしたが、方面自治会は協定書を履行しろと要求です。この訴訟はさすがに協定書で撤去を約束している動燃も勝てません。一審でも二審でも自治会が勝ちました。最高裁の決定で(上告を棄却して)撤去しろということになって、撤去しました。撤去したのは2006年、放置発覚後から18年後です。
撤去したウラン残土の一部は、アメリカのユタ州のホワイト・メサという製錬所に運ばれた。これは先住民の土地です。私達も想定外。痛恨の極みです。最終的には、残りの2700立法メートルを人形峠県境の鳥取県側の県有地で、レンガに加工して、県外に搬出した。去年の福島の原発事故の3ヵ月後、去年の6月にやっとレンガ加工が終わって、県外搬出された。結局、方面地区のウラン残土は24年かけて一応区切りがついたんですけど、実は人形峠周辺には45万立方メートルのウラン残土がほとんど基本的にそのまま、立ち入り禁止柵を設けるだけで放置されたままです。そのようないきさつです。

原発は入り口から出口まで放射能のタレ流し
今日、映画ご覧になったと思いますけど、人形峠のウランは先ほど申しましたように、100万キロワット(の原発の)半年間(足らずにすぎません)。じゃあ、今54基の原発を運転している日本の燃料となっているウラン、海外のウラン採掘地はどうなっているか、というのが今日の映画のまさにテーマだったと思います。すでに、人形峠では、たった半年分(足らず)の燃料(のウランを)掘るのに、延べ1千人の労働者のうち70人が肺がん死する、という小出裕章さんの推定値です。
ところで、今日の映画では確かドイツでは7000人が肺がん死している。皆さんご覧になりましたように、膨大なウラン残土の山がいくつもある。映画でたしか1000ある(と言っていました)。それから選鉱くずと呼ばれる ― われわれはウラン鉱砕と呼んでますけど、これは結局ウランを抽出するのに化学薬品をかけて取り出すわけですけど ― その選鉱くずのダムが巨大な湖のようになって茫漠と広がっている。映画で見られたと思いますが、とてもじゃないけど日本の原発の運転のために、海外のウラン採掘でとてつもないことが起きている。映画に出てきたウラン残土の山もウラン鉱砕の湖も、手がつけようがない、始末に負えないというのが実態です。
ですから、この映画のメッセージは、「(原発は)入り口から出口まで放射能のタレ流し」。原発の本体では福島でボカーン!出口でも核廃棄物の始末に困っている。入口からしてそういうとてつもない問題が起きている。とてもじゃないけど、原発がクリーンなエネルギーなんて信じられない。事実がそれを否定している。私達は改めて福島の現実から、原発が必要とする燃料の入り口から出口まで、核廃棄物を見る必要がある。今回、(映画『イエロー・ケーキ』で)それを見まして圧倒された思いです。一刻も早くこんな原発をやめないといけないと私は思います。

なお、1月23日に自由報道協会主催の「イエロー・ケーキ」監督記者会見に土井さんが同席され、詳しくお話になっていますので、ぜひ、お読みください。
http://actdoi.com/houkoku1.html

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