2月3日トークレポート

『イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘』
ゲスト:渋谷哲也さん(ドイツ映画研究/
 「イエロー・ケーキ クリーンなエネルギーという嘘」字幕翻訳)

脱原発-日本とドイツ
私はこの映画の字幕と採録シナリオを担当しました。普段はどちらかというと旧西側のドイツ映画を主に研究していますが、「イエロー・ケーキ」は旧・東ドイツ出身の監督作品ということで、その違いを面白く感じました。また日本とドイツを行ったり来たりしている中で、日本での脱原発の動きがドイツの事例とどう違うかということについて映画の特徴や監督の特徴と絡めて語ってみたいと思います。

ドイツ~路上で自己主張するのは市民の権利
監督のインタヴューは、YouTubeなどでアップされているのをご覧になった方がいらっしゃると思います。デモで街頭に出て市民が政府に圧力をかけるべきだ、それによって政治が変わると監督はずっと話されていました。ところが日本ではなかなかそういう動きにならない。この違いは何だろう。多分日本の中にずっといると、その空気感とか人々の諦めムードが漠然と感じられると思うのですけど、私はしばらくベルリンに住んでいて、人々の意識の違いが根本的にあることをよく感じました。

つまり路上に出て自己主張するのが市民の普通の権利の一つだと皆が思うかどうかということです。デモというと道を占領してパレードしますが、あれを交通渋滞の原因だ、騒々しいとか迷惑だと考えるかどうかという点は大きいと思います。日本の場合、デモする時に絶対に2車線を使わないとか、警察の規制が大きくて非常に条件が厳しい。それに反すると逮捕されたり、周りから狂信的な集団と見られたりすることがありますけど、ドイツのように何十万人がデモをしたら、それこそ広場全部占拠するみたいなことになると思います。圧力をかけるといっても暴力を意図的に使うのではなくて、市民の権利として集まるとそれが一つの力となる。となると普通の人が非常に参加しやすい。これが日本とドイツの一番大きな違いの一つかなと。

市民の権利としてのデモ・スト
日本では集まって皆で決起する。決起するというと政治的な言葉になってしまいますけど。本来街頭は、皆で集う公共の場ですよね。意見がぶつかったり、討論になったりもする。そこでは公共の場で生きる個人の権利を認め合うことが不可欠です。理念上、討論には誰もが参加できなくてはいけない。この西欧の文化のあり方は重要だと思います。公共的な意識の持ち方の問題です。一例を挙げるとストライキがあると思います。ドイツはストが多いです。交通ストですね。地下鉄が止まったりバスが止ったり。日本も昔はありましたけど、最近はまず起こりません。やると言ってもだいたい回避することになります。公共の交通サービスをストップして、労働者は雇い主に自己主張しますが、それを労働者に与えられた権利と考えるかどうか。それを行使するのが市民の当然の権利だと、雇われた人に認められた権利だと思えば、地下鉄が止まっていても利用者はそれほど地下鉄に悪態をつかないと思うんですよ。不便だなとは思っても、みんな歩いたり別の手段を使います。もしこれを日本でやったら、むしろストを実行している鉄道の従業員に非難がわっと集まるんじゃないかなと思います。そもそもなぜストをするのか?これを理解するには、社会の構造を幅広い視野で見なくてはいけない。公共サービスが止まったら市民は多大な迷惑を被る。だからこそ現場作業員の就労環境を整えることが社会全体のプラスになるのだという考えです。今日の通勤で不便を被るかどうかという近視眼的問題ではありません。余談ですが、昨年の計画停電や電力不足アピールは、このストの理念を巧妙に利用した企業の延命策ではないかと思っています。ストをすることで政府や国民に企業の必要性を強烈に訴えかけるわけです。こう考えると、デモやストそのものの善し悪しではなく(そもそもそれを行う権利は認めるべきなので)、いかなる主張のために抗議行動を取っているのかを知ることが決定的に重要になるでしょう。それに賛同または反対する権利が市民一人一人に与えられていることになります。賛成ならそのデモに自分で参加するわけです。

日本は権力に対する考えがすごくナイーブだと思います。だからこそ、政治が変わったら全部変えてくれるんじゃないかと思いがちではないでしょうか。だからこそ異議申し立ての手段が様々に必要となります。一番簡単なことは、デモもストも市民の権利だと意識すると、自分が参加していないデモやストでも、自分と同じ市民の権利だと中立的に理解できるようになると思うんですね。

教育が大切
こうした意識変革のために重要なのは、やっぱり教育ですね。何が市民の権利なのかを小さいころから実感と共に分からないと無理かもしれない。メディアの問題もそうです。無色透明で中立なメディアは存在しません。『イエロー・ケーキ』の場合、東ドイツと西ドイツの感覚を、日本を間に置いて見ると面白いと思います。東というのは当然、上からの統制が厳しい。国家に逆らった人は刑務所に入るかもしれない。反逆の言葉をちょっと口にしただけでも危険が及びます。そういう恐ろしい国家だったわけですけど、それだけに情報というのは歪んでいると皆が分かっているのです。だから非常な葛藤がありますが、裏を知っているからこそ権力の手口を露わにすることができるのではないかと思います。一方西側には一応言論の自由があるし、報道の自由もある。ただし、色んな形で警察組織も動いている。そういう闘いをやっている一見自由な社会です。日本は西側ですが、権力側に対する市民の委縮の仕方は東に近いようなところもある。東西両ドイツの悪いところだけ似ているような感さえあります。

ウランと名のつく前 400年前からドイツでは採掘されていた
ヴィスムートは知っていましたが、実態は初めて見ました。実はチルナー監督以外にもフォルカー・ケップ監督が『ヴィスムート』というドキュメンタリーを作っています。『イエロー・ケーキ』で面白いと思ったのは、ドイツから始まっているというところです。つまり、冷戦時代のドイツということです。ウラン採掘はそもそも東西冷戦がきっかけ、つまり核兵器の製造です。ですが映画の中でもちょっと出ていましたけど、それよりずっと昔に鉱夫の話しがあって、掘り起こしたら危険な鉱物があるという伝説が語り継がれている。16世紀くらいに、まだウランと名の付く以前の時期に、エルツ山脈(旧東ドイツとチェコとの国境あたり)で鉱物を掘っていた。ナミビアやいわゆる第3世界に手を伸ばす以前、もうすでにヨーロッパのど真ん中でウランを採っていた。その意味では始まりなのでしょう。

当時はそんなに大量生産していなくて、顔料とか陶磁器の上塗り薬に使っていた。その一方で採掘していた人達が次々と謎の病で死んでいく。そういう噂話や伝説が残っているということは、この鉱物が危険を内包していることが当初から分かっていたということです。それが400年前から続いていて、200年くらい前にウランと名付けられました。酸化ウランを黄色いパウダーとして取り出す技術が開発されたのです。イエロー・ケーキの誕生です。でもその時も放射性物質の危険はすぐにはわかりませんでした。

最初は小さな地元産業だったウラン採掘が、今はグローバル産業となります。地球のあちこちでウランが求められ、全世界を包摂するようになった。原子力村はまさに《グローバル・ヴィレッジ》となったと言えます。

「イエロー・ケーキ」の啓蒙性
ところで、情報という点で言うと、チルナー監督は情報がどこまで開示され、どこで隠されているというのを非常に丁寧にナレーションで教えてくれます。「ここは取材しても撮影拒否されました」「別の関係ない人に頼んだら飛行機で飛んでくれました」「ここまで映画撮影チームは踏み込めませんでした」、というのを全部セリフにしています。結構重要なことじゃないかなと思います。映画自体が取材の可能性と限界を明示しているというのが極めて啓蒙的です。例えば録音禁止の状況で極秘録音をしたことも明かされます。情報を得ることが権力や制度との格闘であることが明らかになっています。

ヴェルナー・ヘルツォークも『緑のアリが夢見るところ』(1993年)というオーストラリアのウラン鉱を掘るかどうかという映画を作っています。実はウラン採掘も含めて原子力に関わる問題は、最初から最後まで非常に危ないと発信する作品は確実に存在していたことは忘れてはいけないと思います。

ドイツを特別視しない
チルナー監督もおっしゃっていましたが、ドイツは公には脱原発の舵を切ったと言っていますが、実は隙あらば元に戻したい。よく見ると新しいエネルギーへのシフトに経済界が完全に納得したとは言えないと思います。今回のドイツの原発を2022年で止めるというのは倫理委員会の提言によって決定されたことです。市民の反発の声を政治が受け止めたものです。だから経済界としては、折あらば元に戻したいと思っても当然です。そういう意味では日本とあまり変わらない。ドイツは原発技術を海外に輸出しようとしている点も、日本と同じです。ドイツは立派に脱原発、一方の日本はこんなに遅れているという風な単純な二項対立で考えるのは危険です。つまり『イエロー・ケーキ』という映画が伝えていることは、ただ一方的に「原発止めろ」ではなく、世界的に見て一体どういうシステムで核に関わる色んなマネーや、政治や情報が動いているかということの実態です。まさにそういう意味でも教育的かつ未来志向の映画だと思います。地球市民としてグローバルな視点で映画を見られると言うのが一番有益ではないでしょうか。